まちづくり

震災遺構と浦上天主堂1

キーワード:長崎原爆 被爆遺構 世界遺産

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戦後、再建された浦上天主堂の威容(1985年撮影)
 手前を走行中の列車は長崎発東京行き寝台特急「さくら」

東日本大震災の被災地では、津波の被害を象徴的に伝える遺構の保存・撤去で意見が分かれている。遺族感情への配慮と高額な保存費用を理由として、既に撤去されたものも少なくない。
看過できなくなった国は、6月14日までに「災害遺産」の選定制度を創設する方針を固めたと伝えられている。教訓的遺産としての価値が認められた遺構、記念碑などが全国から選定される模様であるが、東日本大震災の遺構が拙速に処分されることを回避する制度とみることもできる。

遺構に関する報道の中で、一時取り壊しに傾きながら最終的に保存された遺構の代表例として、広島の原爆ドームが紹介されることが多い。一方、撤去された遺構としては、これも原爆によって破壊された長崎の旧浦上天主堂(浦上教会)が取り上げられている。
これらは「戦災遺構」に分類され、おそらく国の「災害遺産」の対象外と考えられる。わかりやすい事例として報道されるのに、実はカテゴリーが異なるのである。
戦災遺構は、イデオロギー対立の場となることが多く、保存を唱える左派勢力に対して、反戦の宣伝材料に使われることを嫌う右派・保守勢力が撤去を主張する。遺構の意義や遺族感情から今後の処置が議論されている災害遺構とは、大きく異なるところに論点があった。

旧浦上天主堂は、この妥協点を見出せない論点に、宗教上の解釈も絡み、複雑な構図のもとで撤去が決まった。
旧天主堂が全国的に注目を集めたのは、1958年の撤去以来のことだろう。遠く離れた東北地方の津波が、長い封印を解くきっかけになるとは誰も予想できなかったことだ。
この話については以前から取り上げたかったのだが、適したタイミングと思われるので紹介する。

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第14回原水爆禁止世界大会長崎会場に展示されていた旧浦上天主堂の廃墟と破損した像の写真

話は戦国時代に遡る。肥前国浦上はキリシタン大名大村純忠の領地となり、多くの村民がカトリック教徒となっていた。江戸時代になるとその一部は隠れキリシタンとなって信仰を守り続け、1865年(元治2)には外国人の礼拝用であった大浦天主堂で教徒であることを告白している。
明治時代になってもしばらくは禁教令は解かれず、浦上四番崩れと呼ばれるカトリック教徒の弾圧が行われる。約3400人が流罪に処せられ、600人以上が文字通り帰らぬ人となった。
生き残った信者などが1879年(明治12)に浦上に建てた聖堂が、浦上天主堂のルーツとなる。

1914年(大正3)に、19年の歳月をかけて東洋一の大聖堂と謳われた旧浦上天主堂が完成。敷地は江戸時代のキリシタン弾圧に加担した庄屋の屋敷跡であった。

1945年(昭和20)8月9日、原爆が投下され、浦上天主堂から500mの至近距離で炸裂する。非耐震レンガ造の天主堂は一部を残して全壊、内部にいた司祭、信徒は全員即死と伝えられている。信徒の犠牲は8,500人とも言われる。

遺構の扱いは長らく議論されていたが、現位置での天主堂の再建を望む浦上小教区の意向により、1958年(昭和33)に撤去された。

以上、経緯の概略であり、詳しくは様々な文献やWEB上の情報があるので、そちらを参照されたい。
長崎原爆に関しての米国の重大なミスと天主堂撤去の経緯については別項で詳しく述べる予定とし、ここでは世界遺産との関係、東日本大震災の遺構保存に関しての教訓という点に絞って述べる。

■世界遺産
原爆ドームの先例から、旧浦上天主堂の遺構が残っていれば世界文化遺産(負の遺産)への指定は確実であった。
現状では、原爆中心地に移設された外壁の一部、現地に片側の鐘楼、破損した聖人像などオリジナルなものが部分的に残されている。しかし、単独の世界遺産として指定されるには、現物性の面から不足であろう。
世界遺産を目指す現実的な方法として、共通の価値のあるものとセットで扱う方法が残されている。

実は広島の原爆ドームとセットで世界遺産とする方法があった。しかし、負の遺産としての事例が少ない中で、米国などの反対をかわして指定にもっていくためには、突っ込みどころの多い旧浦上天主堂を含めるのはおそらく厳しかったと思える。

次に考えられる方法は、世界的に稀有な長崎のキリシタン弾圧・再生の歴史を世界遺産の推薦趣旨とし、関連施設の一つとして旧浦上天主堂を含めるもの。前述の通り、長崎におけるキリスト教徒の歴史は原爆を抜きに語れないものがあり、浦上天主堂はその中心的な存在である。

しかし、世界文化遺産を目指し、ユネスコの暫定リストに登録されている「長崎の教会群」に、浦上天主堂はなぜか含まれていない。
「長崎の教会群」の推薦趣旨はキリシタン弾圧・再生の歴史であり、教会群の建築物としての価値のみを拠り所としているわけでない。
現天主堂は、戦後の鉄筋コンクリート造(レンガ色の外壁は塗装あるいはタイル張)なので残念ながら建築物として高い価値を持つと言い難い。しかし、わずかに残されている旧天主堂のオリジナルの遺構(一部は国史跡指定済み)を世界遺産の指定対象とすれば、手続き上の問題はクリアーできるはずである。

旧浦上天主堂を含めて世界遺産候補に含めることによって、指定が先送りになることを恐れているのかもしれない。が、旧浦上天主堂の世界遺産指定のおそらく最後の機会を逃すことになるし、中心的な施設を除外してまで指定に走ることへ疑問を覚える。

富士山の世界遺産指定の際には、イコモスからの「三保の松原」の除外勧告を受け入れずに乗り切った。これは日本人共通の価値観に口を挟まれた部分があったから、突っぱねて成功した。
仮に、旧浦上天主堂追加、趣旨再検討の勧告を受けた場合、仏教国の我が国が、カトリック国を納得させる説明をできるだろうか。

■震災遺構への教訓
旧浦上天主堂撤去の結論が出るまで、13年も要している。それでも、社会・経済・技術の変化・進歩に間に合わなかった。
負の世界遺産の概念、歴史の浅い戦跡を史跡指定する法制度、高度経済成長による国力増大(文化・スポーツ施設など直接利益を生み出さないものの建設・維持が可能に)、遺構の移設や遺構地下への聖堂建設など対応技術の多様化(アスワンハイダムの建設では巨大なアブシンベル神殿を移設)などが、撤去後の変化として挙げられる。旧天主堂撤去当時の前提条件は、ことごとくひっくり返っている。

以上より、細かい議論をするまでもなく、震災から3年しか経っていない現時点では、震災遺構の存廃の結論を出すには早すぎると思う。破却すると復元は不可能なので、合意点を見出すまでとにかく残しておくしかない。

2015.8.9一部訂正

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